ピアサポーターさんから、娘の様子が『自他の境界線がない』という話を聞き、「自他の境界線」が一体なんなのか、娘に対してどうすればよいのかと、「自他の境界線」についてネットで調べたり、本を読んだりしました。
「自他の境界線」について知っていくと、娘の異常なまでの私への要求や干渉の原因が分かってきました。
「自他の境界線」を知ったことで、癇癪がとまらない娘と、疲弊しきっている私の状況を少しずつ打開するきっかけになりました。
「自他の境界線」とは?
「自他の境界線」とは、『自分と他人は違う存在だと区別する境界線』のことです。
自分は自分、他人は他人。自分以外の他者は自分とは別の存在であるという認識です。
「自他の境界線」があることで、自分の考えを人に強要せず、他人の考えを尊重することができます。
「自他の境界線」がない5歳の娘との日常
- 私に対する要求・干渉が酷い。「ママ、これして」「ママ、とって」が際限なく繰り返される。従わないとぐずりだし、癇癪を起こす。
- 娘が提案する遊びが、なんとも説明しがたくめんどくさい独自ルールがある。遊ぼうとすると、「そうじゃない」「ちょっと待って」「まずこうして!」と訳の分からない説明が始まり進まない。
- 私が提案した遊びには従わない。
- 何か失敗すると人のせいにする。
際限なく続く要求
自他の境界線がない当時の娘は、母である私のことを自分の一部として捉えていたと思われます。
当然言うことを聞くはずの、自分の一部である私が言うことを聞かないと、何で言うことを聞くはずのモノが言うことを聞かないんだと怒ります。
娘の要求に少しでも従わないと怒り出すという状況が365日続いていました。
例えば、取ってと言われたものが娘の方に近かったので、自分で取ってと言うと怒る。
遊ぼうと言われたタイミングが、ご飯の支度をしている途中だったので遊べないと言うと泣き叫ぶ。
遊びの中で、私がこうしてみたら?と提案するとキレる。
当時の私は癇癪を避けたいために、やむを得ず娘の要求に答えることで、更にその要求がどんどんエスカレートしていくという悪循環でした。
人をコントロールしようとする行為
娘は、私が言うことを聞くまで怒り続け、癇癪や暴力が止まりません。
泣き叫ぶこと、癇癪、叩く蹴るなどで、私をなんとかして言うことを聞かせよう、コントロールしようと必死です。
今振り返ると、娘のこれらの行為は自分の一部だと思っている私をコントロールしようと必死だったと分かります。
娘の癇癪については何年も悩んで原因が分かりませんでした。
しかし、「自他の境界線」を知るにつれて、”これが原因の1つだ”と確信していきました。
どうやって「自他の境界線」を伝えるか
母であろうとも、私は娘とは別人格で別の人間であるということを、彼女に理解させる必要がありました。
私は娘の一部ではなく別の人間で『他人』あること。
誰であろうと、人をコントロールしたり・されたりするものではないということ。
他人は他人の考えがあり、自分の考えと同等に他人の考えも尊重されるべきであることを伝える必要がありました。
娘に「自他の境界線」を理解させるためにしたことは、私ができないことはできない、やりたくないことはやらないを徹底するということです。
なんだ、そんなことか、と思われるかもしれませんが、娘の要求を飲まずに、私のできないを貫くためには、何時間も続く娘の癇癪に屈しないという覚悟が必要でした。
当時の私は疲れ果てていて、癇癪に屈しないというのはかなり大変なことでした。
また、事あるごとに「私はあなたとは別の人間です」と、まさにこの文言を彼女に伝え続けました。
これをして遊べと要求する娘に、「私は今、他のことをしているのでできません」
すると、ぐずりだして怒ろうとする娘に、「私はあなたとは別の人間です。私は今、これをしているからできません。これが終わったら遊ぶから待っててください」と伝えていました。
「私はあなたとは別の人間です」というのは、日常生活にはかなり違和感のあるフレーズですが、「自他の境界線」を娘に伝えるためにどうすればいいかと悩んだ結果、言葉で伝えてみようと思い始めました。
効果があるのか初めは分かりませんでしたが、このフレーズを伝え続けた結果、自分の思い通りに私が動かない怒りで泣き叫びながらも、「分かってる。ママと私は別の人間」という言葉が娘から出るようになりました。
「できないことはできない」「私はあなたとは別の人間」を伝え続けたことで、娘は少しずつ要求が通らなくても癇癪を起こすことが減り、私に対する理不尽な干渉が何年もかけて徐々に減っていきました。
小学3年生の頃には、要求が通らなくても癇癪をおこすことはなくなりました。
家庭生活の中の規律とゆとりの難しさ
「自他の境界線」を伝えていく中で、できないことに対する、できないという一貫した姿勢は必要です。
できる・できないの基準がブレると子どもが混乱します。
また、癇癪で言うことを聞いてしまうと、癇癪で人をコントロールする誤った方法を強化してしまうため、癇癪を終わらすために言うことを聞くことはやめたほうが良かったです。
ただ、後に発達外来の先生に言われたのですが、「赤ちゃんのころからずっと一緒に日常生活を暮らす母は、できる・できないの線引をすることがなかなか難しい」ということです。
家庭は日常生活の場でもあるため、子どもの甘えを受け入れる・許容するという家庭の持つ機能の部分と、発達特性上、自他の境界線がない子の要求を飲むことの違いが、自他の境界線という概念を私が持つまでは、その違いが分かりませんでした。
甘えと自他の境界線を踏み越えた要求の違いは、子どもが幼いときには厳密に分かりにくいように感じます。
娘も保育園で頑張って疲れているときもある。母である私に甘えたいときもある。家庭の中が療育しかなくなってしまったら、また私に甘えられなくなってしまったら、娘は安らぐ場所がありません。
娘の要求に対しては、私の意志で答えられるときには答えることもありました。
例えば娘が、「あれとって」と言った時に、私が対応できる状況であれば「ママの方に近いし、今何もしていないから取れるよ。はい、どうぞ」と、取ってあげていました。
わざわざ言葉で説明して、私の状況が可能なので取りますよ、私が取ってあげようと思って取るんですよということを伝えていました。
大切なのは、できる・できないの選択権は私にあるということです。
「自他の境界線」を身につけることで生きやすくなる
「自他の境界線」がないまま成長していくと、相手が自分のことを理解して当然という思い込みがどんどん強化されていきます。またそれは、相手に理解されなかったときの怒りも強化すると感じています。
赤の他人の発言や、赤の他人である芸能人の不倫に対して、怒り許せないと猛烈に叩く人は、自他の境界線があいまいで、自分の価値観から逸脱することを許せない(=自分の考えこそが正しい。他の価値観を受け入れられない)という思い込みにより、自分と他人が同一化されてしまっている状態であると考えられます。
自分には自分の、相手には相手の考えや価値観があると理解し、「自他の境界線」を身につけることで、多様な価値観が存在するこれからの社会をぐっと生きやすくなるのではないかと感じています。